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妖怪うぃき的妖怪図鑑

妖怪うぃきから産まれた妖怪図鑑ブログ。妖怪の原点に触れ、もっと魑魅魍魎を知るきっかけになれば幸いです。

これで君も救われる! 南無阿弥陀仏!! 浄土宗・浄土真宗講座

妖怪と仏教講座

とにもかくにも南無阿弥陀仏

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国内の仏教各宗派の中でもダントツで信徒数が多いのがこの浄土宗(特に浄土真宗系)であります。

まとめて紹介なんかしたら通には怒られるんでしょうが、そもそも坊主の通っていうのがどういう類の方なのかちょっと想像できませんので、決して一緒くたにはしないように、浄土宗、浄土真宗一気に紹介したいと思います。

 

キーワードは、とにもかくにも、南無阿弥陀仏。これだけ。

 

あぁこの世の終わりじゃぁ

各仏教記事でもちょろっと出て来たかもしれませんが、平安時代末期に日本中を不安に巻き込んだ「末法思想(まっぽうしそう)」というものがあります。

これは仏教の歴史観でして、釈迦の入滅から千年間を「ブッダの教えが正しく行われる期間」として正法(しょうぼう)、その次の千年間が「悟りを開くものがいなくなる期間」として像法(ぞうぼう)、更に次の一万年間、「仏陀の教えが滅びる期間」とされる末法(まっぽう)がやってくる、というものです。

中国仏教での釈迦入滅とされるのが紀元前949年で、正法は既に過ぎ、平安時代末期の1052年頃に像法も終わり遂に末法がやってくる――ということで末法思想が生まれたのです。

で、ただ「やべぇまっぽうきやがった」とヤンキーみたいに怯えるだけではなく、大飢饉で死者が多数出たり、仏教界も武装し始めて不穏な雰囲気になったりと、「末法感」を盛り上げる要素がその時代数多くあったことも拍車をかけたのだと思います。

 

極楽往生のカラクリ

天台宗の項でも書きましたが、浄土宗開祖の法然(ほうねん)も真宗開祖の親鸞(しんらん)も比叡山で学びました。

しかし当時はまさに末法思想と僧の武装化が進み、仏教界も不穏な状況。

そんな中、法然は『観無量寿経疏』(かんむりょうじゅきょうしょ)と出会います。

その中に書かれていた、「ただ口に念仏を唱えれば、誰もが極楽浄土へ往生することができる」という言葉から、今この世を救うにはこれしかない、と確信した法然は下山して浄土宗を開くことになるのです。

 

何が革新的かって、そりゃもう誰もが、念仏を唱えるだけで極楽へ行ける、という点です。(専修念仏と言います)

更に、それまでの宗派とは一線を画す「緩い規律」も人気の秘訣であったことは言うまでもありません。

 

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 さて、では一体なぜ南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生できるのか? それについて考えてみましょう。

浄土宗は、浄土三部経と呼ばれる『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を根本聖典としています。

その内の『無量寿経』に、阿弥陀如来がまだ修行の身の菩薩であった頃、全ての人々を救うための48の誓願を立てたのだと書いてあります。そしてその中の18番目に、こう書かれているのです。

 

「人々が浄土に往生したいと願い、私の名を唱えたのにも関わらず、浄土への往生が叶わないのだとしたら、私は仏になどならない」

 

なんだか回りくどい言い方ではありますが、とにかく菩薩時代の阿弥陀如来はそう誓っているのです。

で、阿弥陀如来は後にご存知のように悟りを得て如来となるわけで、つまり逆説的に上述の誓願は「必ずその通りになる」ということなのです。

あー。

これでもまだなんだかわかりにくいですね。

つまり結果的に、

「私の名前を唱えれば浄土へ往生できるんです! だから私は仏になったのです!」

ということにもなるでしょう。この方がわかりやすいですね。

そういえば冒頭の画像、鎌倉の大仏サンでも有名な高徳院の大仏。これも阿弥陀如来。

 

浄土真宗との違い

次に浄土真宗を見てみましょう。

浄土宗を開いた法然を敬愛して止まない、良き弟子が親鸞でした。

この二人、共に比叡山で学びますが、二人とも「修行ってキツくね?」という具合に挫折した経緯を持っています。それが後の戒律も無い、修行も無いという浄土宗、浄土真宗のカラーへと繋がっているんですね(浄土宗はちゃんと出家します。それに比べ、真宗は在家でOKのかなり緩めの規律です。というか規律とか無いに等しいでしす)

「だってオレラ守れないもん!」

 

実は法然と親鸞は、浄土教の特質故に他宗派から激しい反発を受け、朝廷へ「あいつらなんとかしてくださいよー」という直訴までされ、僧籍を剥奪された挙句に(←親鸞のみ)流罪にされています。

 

そして親鸞は流罪になった先で妻をもらい受け、自らの立場を「非僧非俗」(僧でもなく、俗でもない)と位置付けました。

浄土宗との大きな違いは、阿弥陀如来への信心を重視していて、念仏を唱える事を直接的な極楽浄土への往生の条件とはしていないことでしょう。

また、親鸞自らが、

「善人ですら救われるのだから、悪人も救われない筈がない。むしろ罪深く煩悩に塗れた悪人こそ、それを認めさえすれば阿弥陀如来は救ってくださるのだ」

と言い、一切合財救ってくれちゃう阿弥陀如来の無限の慈愛がよくわかります。

 

ただ――僕の個人的な感想として、ここまでいくと流石にぶっ壊れ過ぎ、敷居を下げ過ぎな感があります。

反発受けるのも解りますが、同時にそれでより多くの人々が仏教に関心を持ち、救われたことも事実。大乗仏教の多くは、時勢の流行りなども大きく関係していることからもわかるように、お堅い宗教のイメージから抜け出した柔軟なものになっていったんですね。

ある意味で、仏教が民衆に合わせて進化し続けた最終形態とも言えるかもしれません。

念仏唱えるだけで極楽往生――これ以上シンプルなものなんてないでしょう。

 

さて。浄土宗を語る上で欠かせないキーワードがもう一つだけありました。

それが、他力本願です。

誤用されまくりの言葉になってしまっていますが、他力本願の本来の意味は、「阿弥陀如来の本願力によって救われる」ということです。

自らを高めるべく修行することを、「自力」と呼び、浄土宗、浄土真宗ではそれを良しとしなかったのですね。

特に親鸞の浄土真宗はその傾向が強く、絶対他力とも呼ばれます。

 

面白いエピソードがあります。

群馬の佐貫に親鸞が滞在していた時、親鸞は人々の救済を願い、自分の考えを深めるべく浄土三部経を千回読もうとしたそうです。

しかし途中で気づいたのです。

「こんなにめっちゃ頑張って読むって……自力じゃん……」

比叡山での修行が身に染み付いてしまっていた親鸞はつい自然に、自力に頼る修行をしてしまったのです。

そして親鸞は深く反省したと言います。

 

――なんかわからんけど、色々大変そうです。

 

小難しいことはいいからとりあえず唱えとけ!

全てをすっ飛ばし、「浄土宗、浄土真宗って何よ?」と問われたら、「うるさい! とりあえず阿弥陀如来を想って南無阿弥陀仏って言ってりゃいんだよ!」と答えれば大体正解です。ただ唱えるだけじゃダメですよ。阿弥陀如来への信心は不可欠です。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

この念仏の意味は、

「阿弥陀如来様に帰依します」というほどの意味です。

阿弥陀如来を想い、この念仏を唱える時、もう既にあなたの極楽浄土行きは決定しているのです。

 

では、浄土真宗だからこそ可能な業、坊さんバンドなる不謹慎(笑)なモンを見つけてしまい、これがまた面白くって良い曲揃いなので、ぜひ聞いてみてください。

ここで紹介する「Gぷんだりーか」というバンドの『念仏ブギ』は、平安時代の四国の悪人が道で会った坊さんに説法されて「うぉ阿弥陀如来すげぇぇ!!」みたいになるというストーリー仕立てになっています。

因みにこのバンドのメンバーは皆さん真宗大谷派みたいです。

では、南無阿弥陀仏!

 

尚、浄土真宗は戦国時代に超武装して信長と十年に渡り決戦しちゃった模様。