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妖怪うぃき的妖怪図鑑

妖怪うぃきから産まれた妖怪図鑑ブログ。妖怪の原点に触れ、もっと魑魅魍魎を知るきっかけになれば幸いです。

徳川幕府歴代将軍と妖怪貢献度を考える

『江戸時代と妖怪』

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江戸時代に起きた妖怪大爆発。それは勿論江戸あってのものであり、当然江戸幕府を開いた徳川家のお蔭とも言えます。

更にご存知の通り江戸時代は265年間も続いており、この間平和を保ち続けた幕府の将軍達は凄いとしか言いようがないでしょう。

そして当然、様々な政策などが妖怪を生みだす力の源になっているのですが、どの時代にどの将軍が就いていたかというのはあまり詳しく知らない方が多いはず。

そこでこの項では歴代徳川家将軍を振り返るとともに、妖怪にどのような影響を与えて来たかを半ば強引に、けれども頑張って考えてみたいと思います。

 

徳川家康(とくがわいえやす)

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 慶長8年 ​(1603年) ​~ 慶長10年 ​(1605年)

 

まずは家康。信長との腐れ縁、秀吉との対立、本能寺の変でのピンチ等、数多の死地を乗り越えて見事天下を治めることとなった名君であります。

因みに↑の絵は三方が原で惨敗した際に、戒めの為に描かせたという自画像。

なぜこれを選んだかと言いますと、この三方が原の戦いは「尻味噌」の逸話が残る僕の大好きな合戦だから。

簡単に説明しますと――近くを通る武田軍へ「あれ? なんか勝てそうじゃね?」という事で徳川軍が喧嘩を売るのですが、超強かった武田軍に未熟だった徳川軍はコテンパにやられ逃げる羽目になりました。その際家康はビビリ過ぎて馬上でクソを漏らしちゃうんですね。で、帰ったら部下に「うんこをお漏らしになられたのでござりまするか!?」みたいに聞かれるんですが「うんこじゃねぇよ! 尻味噌だよ!」と逆ギレしたそうな。

くそみそな言い訳。最高です。

 

――話が逸れましたが、とにかく家康無くして江戸の平和は有りえなかったわけで。

では妖怪との関係は? と考えますと、家康はしばし「狸」と呼ばれていたようです。妖怪との関係もクソも、家康自体が狸なんですから、考えるまでも無いですね。

そのようにして、狸が基礎を作った江戸時代が始まるわけであります。魑魅魍魎が沸かぬわけがない。

 

2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)

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慶長10年 ​(1605年) ​~元和9年 ​(1623年) ​

 

家康が幕府を開いて僅か2年後、早々に征夷大将軍の位をこの秀忠に譲り渡します。

家康の三男であった秀忠は、まだ関ケ原時代を見てきた人物でもあり、評判がずば抜けて良かったりはしないものの、重要な「2代目」としての役割をきっちりこなしたなかなか優秀な人物だったようです。

また、豊臣家を滅亡させた「大阪の役」にも参加しており、その際は父の家康と一緒に指揮を執っています。ただ、家康に意見しても合戦慣れしまくっていた家康から逆に説教されることの方が多かったようです。

 

3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)

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 元和9年 ​(1623年) ​~慶安4年 ​(1651年)

 

3代目は秀忠の次男であった家光さん。生まれつき体が弱かったようですが、その反動もあってか、外に出て遊ぶことが大好きだったようです。

また、父である秀忠よりも祖父である家康を深く尊敬していたようで。

更に、合戦をほぼ知らない世代にさしかかっていますから、ほんの数年前まで行われていた合戦に想いを馳せることも多く、特に御伽衆(軍事的な相談をしたりする役職。色んな呼び方がある)としてよく呼んでいた伊達政宗からは色んな合戦の話を聞いたとか。なにそれいいな。

そして妖怪貢献としましては、家康の時代から着々と進められていた鎖国を更に強化する政策をいくつか実行しています。

日本独自の妖怪フィーバーが起こる上で、鎖国って結構重要な要素だったんじゃないかと僕は思ってます。

 

4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)

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 慶安4年 ​(1651年) ​~延宝8年 ​(1680年) ​

 

家光の長男として生まれた家綱さん。家光はある時期まで全然子作りしなかったという事もあり、ようやく生まれた長男の家綱を将軍にすることは早々に決めていたようです。

そんなわけで若くして(11歳)将軍職に就くことになってしまった家綱。当然よからぬことを考える輩にその地位を脅かされることしばしば。ですが幸運だったのは、家光の代から幕府を支えてきた側近の好人物達が幾度も家綱をフォローし続けたことです。泣けるのは、家綱自身も自らの無力さと、周りの者の力を自覚しており、感謝していたこと。そうさせた家綱ですから、将軍たる力が無かったわけでは無いと思います。

そして妖怪に関係する事と思われるのは、何と言ってもこの家綱さんの時代に起きた明暦の大火でしょうか。

家康の代から発展を続けてきた江戸の町が、この超大規模な火災によってほぼ壊滅し、良くも悪くもリセットされることになりました。妖怪との直接の関係は無いものの、ターニングポイントとなったのは間違いないでしょう。

 

5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)

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 延宝8年 ​(1680年) ​~宝永6年 ​(1709年) ​

 

御犬様こと綱吉さんは、とにかく生類憐みの令が有名です。

家光の息子であり、家綱はお兄ちゃんにあたります。

悪政ばっかりだ、なんて言われて叩かれがちですが、お江戸のペット事情なんていう記事でも書いたように、動物愛を深め、さらにそこから多くの妖怪達が生まれるきっかけを作ったと言っても過言じゃない……多分……と、思います。

 

6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)

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宝永6年 ​(1709年) ​~正徳2年 ​(1712年) ​

 

家光の孫にあたる家宣。

綱吉がはちゃめちゃにした江戸幕府の政治を、なんとか立て直したとして名君とも言われる人物です。

綱吉は死ぬ間際の遺言で「くれぐれも生類憐みの令、続けてね」と言ったのにも関わらず、綱吉死後に「――とは言われたが民の為にならぬ悪政を続けるわけにはいかん」とすぐに廃止しちゃいました。そんなこんなで評判良かったのに、将軍になってから3年あまりで死去。

余談ですが、将軍って想像以上にその生活はガチガチのルールに固められていてキツかったらしいです。体を壊す将軍が多かったのも納得。

 

7代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)

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正徳3年 ​(1713年) ​~享保元年 ​(1716年) ​

 

家宣の四男であった家継。家を継ぐ、なんて名前なのに当初は将軍候補に挙がっていなかったりしました。

色々あった末に将軍となりましたが、当時まだ5歳。しかも風邪をこじらせたのが原因でその3年後に夭折(ようせつ。若くして死ぬこと)。なんだか色々と可哀相な将軍であります。

 

8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)

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享保元年 ​(1716年) ​~延享2年 ​(1745年) ​

 

暴れん坊将軍こと徳川吉宗がご存知8代将軍です。

実は家継の死去で、徳川将軍家の血筋が絶えてしまいました。ただ、あくまでも将軍家の血筋であって、徳川家の血縁が全て死んじゃったとかではありません。

この吉宗は、家康の十男である徳川頼宣の、長男である徳川光貞の、四男にあたります。

暴君とも言われる吉宗ですが、後年に良い影響を与える多くの政策を行ってきたのも事実。

またとても好奇心旺盛だったようで、後の妖怪にもつながると思われる多くの珍しい物、海外の物を好んで集めたりもしていたようです。

因みに、米相場の操作に挑戦してみたり、多くの米に関わる政策をとったことから「八十八将軍」との異名もあります。米、という漢字を分解した洒落ですね。

 

9代将軍・徳川家重(とくがわいえしげ)

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延享2年 ​(1745年) ​~宝暦10年 ​(1760年)

 

吉宗の長男である家重。

特に有能だったという逸話は無いし、言語不明瞭であったためにほとんど何を言っているのか解らなかったらしいです。

しかし、この家重は興味深い謎を多く秘めている将軍でもありまして、なんと女性だったのでは? という説まであります。

故に声でばれるからあまりハッキリと喋ることが出来なかったとか。

妖怪的な妖しさを持つ将軍です。

 

10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)

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宝暦10年 ​(1760年) ​~天明6年 ​(1786年) ​

 

家重の息子で、吉宗の孫にあたる家治。吉宗は言語不明瞭であった為に家重には教えられなかった多くの事を家治に教えたと言います。

政治面では、田沼意次(たぬまおきつぐ)を重用し、自身はほとんど趣味の将棋に没頭していたとか。

しかしこの田沼意次という人は、賛否両論ありますが、当時はかなり嫌われていたようで、実は幕府への怒りが多くの妖怪画を産んでいたりもするので、貢献度は高そうです。悪政への風刺を妖怪などに託して描くというのは当時一般的かつ人気のある手法でしたので。

 

11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)

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天明7年 ​(1787年) ​~天保8年 ​(1837年) ​

 

さて、実にこの家治から家斉へと変わる辺り、妖怪にとっては非常に重要なあるモノが世に出回るようになります。

それは、1776年に刊行された、鳥山石燕『画図百鬼夜行』です。

更に石燕の弟子達が黄表紙文化を創るきっかけになったりしていますので、江戸と妖怪という観点から見ると、特に目立たぬ将軍が多かったとはいえ非常に重要な時期だったと言えるでしょう。

因みにこの家斉さんは、田沼意次が評判悪すぎるのですぐにクビにし、松平定信さんを老中に置いています。この方は天明の大飢饉の際に素晴らしい判断で藩を救った人物。飢饉や大火についてはいつか詳しく書こうと思っています。

ただ、松平定信も、風刺画を沢山描かれてますから民衆から絶大な支持――というわけではなかったようですね。むずかしいものです。

また、最も江戸で妖怪ブームが盛り上がったのもこの家斉さんの治めていた時代。

中でも文化・文政年間はそこら中が妖怪だらけだった妖怪の楽園ともいえる時代です。あくまでも娯楽としての妖怪ではありますが。

 

12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)

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天保8年 ​(1837年) ​~嘉永6年 ​(1853年) 

 

家斉の次男である家慶。これまた趣味に没頭した特別有能とは言えない将軍だったようです。

しかし時代は幕末へ向かっており、しゃんとして貰わねば困ります。

この家慶さんの時代にはあのペリーもやってきました。

そこで冷静に対策を練るぐらいはしてほしいものですが……なんと黒船来航で世間がパニクる最中、死んでしまいます。

嗚呼……。

 

13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)

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嘉永6年 ​(1853年) ​~安政5年 ​(1858年)

 

「おいペリー来てンのに父ちゃん死んじゃったよおいおいどうすんだよ!」

――な非常に難しい状況をまんま引き継がされたのが家定さん。

しかも幼い頃から病を持っており、母親以外に心を開かなかったらしいです。

そう、家慶あたりの代から、「もう幕府はオワッテル」という風潮は現れ始めていたんでしょうね。

それに拍車をかけるようになんだか様子のおかしい将軍が続くので、そりゃ世間も「討幕」なんて言いだしちゃうわけです。

幕末は、幕府自らが呼んだと言っても間違いではないのです。

 

14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)

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安政5年 ​(1858年) ​~慶応2年 ​(1866年) ​

 

いえしげ、と読みがちですがいえもち、です。

もう次代は激動の幕末。哀しいかな、この家茂さんは久方ぶりの有能な将軍であったようです。

徳川将軍の中でも最も妻を愛した男とも言われ、勝海舟らにも評価されていたのですが、20歳という若さで病に倒れてしまいます。

井伊直弼が大老になったのもこの家茂さんの時代。

しかしどうあがいても、ペリー来航で西洋文化、思想に触れ、腐敗した幕府の体制を覆そうという動きは止まりません。

桜田門外の変、池田屋事件、そして長州征伐。

長きに渡り泰平を保ってきた徳川幕府も、ついに終わりの時を迎えようとしていました。

 

15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

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慶応2年(1867年)~ 慶応3年(1868年)

 

そして最後の徳川将軍、慶喜さんです。

最後の将軍だからと言って無能だったと思っては大間違い。

むしろ「家康の再来」とまで言われる非常に聡明で武勇に秀でた人物だったそうです。

もしこの方が将軍でなければ、戊辰戦争から明治維新までの大変革はもっとぐちゃぐちゃな物になっていたかもしれません。

因みに、慶喜さんは手裏剣の達人だったそうです。

そう、あの手裏剣。

毎日鍛錬を欠かさなかったとか。

そして幕藩体制が崩れ、最後の将軍としての役目も終わってからは、静岡県に隠居し、地域の人々に親しまれる良き人物として、趣味に没頭して暮らし、77歳でその生涯を終えました。

地味に徳川将軍の中で最も長生きしたのがこの慶喜さんです。

 

 

――さて、随分長くなりましたが、徳川歴代将軍を頑張って辿ってきました。

妖怪への言及が少なかったのは申し訳ないのですが、娯楽としての妖怪を多く生み出したのはやはり政治への怒りであったり、或いは世間が大きなナニカによって動いた時が多かったんですね。

その証拠に、幕府への不満が募り始めた家斉の時代と、明治維新前後の時代は特に妖怪が多く生まれています。

娯楽としての妖怪が生まれる所は、まさに世間の大きなうねりの「歪み」からだと言えるのではないでしょうか。

 

そして今回長々と紹介した徳川歴代将軍達。嫌われ者も人気者もいましたが、彼らが今の日本の基礎を作ったことは間違いありません。

特に、何も無い、ただの海が広がるだけの「江」の「戸」だった江戸を、物凄い努力と根性で整備し、今の東京にまで繋がる都市を築き上げた家康の事は、たまに思い出して「あんたやっぱり実は化けダヌキだったんじゃねぇか?」なんて考えてあげて欲しいと思います。

 

まさに怪異!