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妖怪うぃき的妖怪図鑑

妖怪うぃきから産まれた妖怪図鑑ブログ。妖怪の原点に触れ、もっと魑魅魍魎を知るきっかけになれば幸いです。

崇徳天皇(すとくてんのう)

歌川国芳『百人一首之内』より「崇徳院」

歌川国芳『百人一首之内』より「崇徳院」

 

 崇徳天皇の名を妖怪として聞いたことのある方は多いと思う(崇徳院、または崇徳上皇とも)。

崇徳天皇は酒呑童子、九尾の狐の玉藻前と共に日本三大悪妖怪とも呼ばれている。

でも何故崇徳上皇が妖怪として恐れられているのかを知らない方が意外と多いようなので、崇徳上皇の半生を追うと共におさらいしてみる。

また、一杯日本の古い制度に関する言葉が出てくるが、一応解説していくつもりなので平安時代の皇室等の用語勉強兼ねて御覧ください。

 

――さて。崇徳さんは悲しいかな、産まれた時から少し厄介事を背負っていた。

平安時代中期の、鳥羽天皇の子として生を受けたのだが、実は白河法皇と鳥羽天皇の嫁さんとが密通して出来た子という噂があった。

白河法皇とは72代天皇であり、なんと鳥羽天皇のおじいちゃんにあたる。つまりどういうことかと言えば、鳥羽天皇が我が子と思っていた崇徳は、なんと自分のじいちゃんが自分の嫁さんを孕ませた子だった――というわけだ(これは『古事談』に記述があるのみらしいく実際は不明だが、少なくとも噂はあったのではないかと思われる)。

そういうわけで鳥羽天皇はテメェのじいちゃんのオイタで出来た(かも知れない)子供に愛情を注ぐことができなかった。こればっかしは鳥羽天皇も崇徳さんも可哀相。白河のじっちゃんがいけない!

 

白河法皇の意向もあり、鳥羽天皇が内心どう思っていたかは不明だがひとまず崇徳さんは天皇に即位することに。

ひとまずは平和なひと時を過ごしていた崇徳天皇。しかし白河法皇が崩御(死ぬこと)すると、事態は急変する。

実権を握っていた白河法皇のじっちゃんがいなくなり、「ようやく俺の時代!」と意気込む鳥羽上皇は、崇徳ではない自分の息子に即位させようとし、「おい崇徳。お前もう天皇譲ってやってくんない?」と迫って引退させ、体仁親王(鳥羽上皇の寵愛していた美福門院との間に出来た子供)に即位させ、近衛天皇が誕生した。

 

 

――ここで一度小休止。法皇だの上皇だの天皇だの、何がなんだか解らない方の為に解説タイム。

まず、天皇がいる。そして天皇が引退すると、上皇と呼ばれる。さらに上皇が出家すると、法皇と呼ばれる。

で、このあたりの時代では、実際に政治をするのは天皇ではないケースがほとんどだった(そういう政治形態を院政と呼ぶ。上皇は「院」とも呼ばれていたため)。

例えば白河法皇の例で言えば、実際に実権を握っているのは白河法皇であり、鳥羽天皇や崇徳天皇は人形のようなもの。

で、白河法皇が崩御したら、自然な流れで実権は鳥羽上皇へと移る。つまり事実上政治を動かすのは鳥羽上皇であり、崇徳天皇はただの操り人形だったということ。その為簡単に天皇を引退させられたりもしたわけで――

 

かくして譲位し上皇になった崇徳さんだったが、不満はあれども飲み下し、鳥羽法皇(出家して法皇になりました)の院政を支えた。

しかし今度は近衛天皇が17歳の若さで急死してしまう。

となると当然跡継ぎ問題が勃発。

当時崇徳上皇には寵妃(公に許されてる愛人みたいなもん)との間に出来た子、重仁親王がおり、どう考えても天皇最有力候補だった。しかし鳥羽法皇はそれを華麗にスルーし、自分の中宮(天皇の奥さんのこと。つまりは鳥羽の嫁)との間に出来た子に即位させた(後白河天皇)。

この辺りになると、崇徳上皇の不満も溜まりに溜まっていたことだろうと思う。

 

そしていい頃合いの1156年、遂に鳥羽法皇が崩御。

「って事はついに、ついに俺の時代が!!!」

と感無量の崇徳上皇だったが、崇徳上皇には敵があまりにも多過ぎた。

崇徳上皇のようやくの院政が始まる前に、そうはさせまいとする多くの輩によって「保元の乱」が起きてしまう。

保元の乱は、大雑把に言えば「壮大な実権争い」であり、また同時に後白河と崇徳という鳥羽チルドレンによる「壮大な兄弟喧嘩」でもあった。

味方の少なかった崇徳上皇は敗北してしまい、讃岐国(四国)へと島流しにされる。

ああもう本当に可哀相な崇徳さん。

 

讃岐国へと飛ばされた崇徳さんだったが、本当に素敵な人物である崇徳さんは仏教を熱心に学び、経文を熱心に写本し、毎日を大人しく過ごした。

そして写し終えた写本を、「くだらない戦いで命を落としてしまった人々への供養と、自分のした過ちの反省の証に、どうか京の寺に納めてください」と朝廷へと送ったのだが……

 

その写本を見た後白河上皇は、

「え? 崇徳が書いたの? 呪いが篭ってるに決まってンだろ! 送り返せ!」

とはねつけて崇徳さんに送り返した。

送り返された写本を受け取った崇徳さん。穏やかに、あらゆる不満を飲み込んできた崇徳さんが……

 

ここでキレた。

 

願わくは、大魔王となりて天下を悩乱せん五部大乗経をもって廻向す

 

皇を取って民となし、民を皇となさん

 

人の福をみては禍とし、世の治まるをみては乱をおこさしむ

 

キレてからの崇徳さんは別人のようで、髪も爪も全く切らず、「天狗になっちまったぁ」と噂されるほど。

自ら魔王となるべく呪い続けて46歳で死ぬ最後には、まるで鬼そのものであったとか。

 

 

――そしてそれ以降、多くの凶事は崇徳さんの怨念の仕業、と言われ続けるわけだが、なぜこうも有名な怨霊伝説になっているかと言うと、怨霊だ怨念だと恐れられた期間がとにかく長いからに他ならない。

実にそれは700年以上も続いたのである。というか未だに語り継がれているわけだから、続いているとも言える。

尚、そのざっくりな数字700年というのは、本格的に崇徳さんを祀り鎮めるまでの期間とも言い換えられる。

というのも、怨霊が恐ければすぐに祀ってあげればいいものを、崇徳さんが生前望んでいた「京に帰りたい」という願いは聞き遂げられず、四国でそのままお墓が作られたのだ。そして崇徳さんの魂を京に帰還させ、祀ったのが白峯神宮であり、明治天皇だった。その間約700年。ようやく崇徳さんの京帰還が果たされ、ひとまず怨霊伝説は終結、といったところだろう。

 

怨霊伝説なんていう妖しいモノのせいですっかり鬼だ天狗だなんていうイメージが付いてしまっている崇徳さんだが、心優しく、歌を愛する素晴らしい人物だったことも忘れてはならない。

実は小倉百人一首にも崇徳さんの歌がある。非常に美しい恋愛歌である。

 

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ

 

岩に当たって別れてしまった水の流れも、またいつかは一つになる。

それは現世では叶わないかも知れないけれど、必ずまた逢うことが出来る。

「愛」という言葉も「恋」という言葉も使っていないのに、本当に美しく心に響く。

僕はこの歌が大好きなので、どんなに怨霊伝説が凄まじくっても、崇徳さんへのイメージは優しいおっさんから揺らがない。